「1950年代のタカクラ・テル」を掲載しました


タカクラ・テルの1950年代は、その大半を亡命した中国で過ごした時代であった。1950年のコミンフォルム批判から日本共産党は徳田球一・伊藤律らの所感派と宮本顕治・袴田里見らの国際派に分裂し、徳田にしたがっていたタカクラは、50年6月の参議院議員選挙に全国区から立候補して当選したものの、マッカーサーの指令にもとづく共産党中央委員の公職追放で失格となる。徳田・野坂参三らは相次いで中国に亡命したが、タカクラは、執筆活動をおこない、長編小説『ハコネ用水』を完成させたあと、51年10月末に伊藤律とともに中国へ亡命した。北京機関では、51年綱領の武装革命路線のもとで、幹部養成の軍事学校である党学校の校長を務める。この党学校の実態について近年の研究成果をもとに明らかにしている。1955年の六全協で所感派と国際派が統一に向かうと、党学校、北京機関も閉鎖される。タカクラは、56年4月から6月にかけて中国各地を旅行し、次いで7月から9月にかけて朝鮮戦争休戦直後の北朝鮮を旅行している。この旅行がどのようなものであったかを、当時のタカクラの日記をもとに初めて明らかにした。そして、タカクラは、58年の第1回アジア・アフリカ作家会議にに参加をしたあと、59年4月に帰国する。
日本共産党が「50年問題」で分裂状態になった時期に、タカクラ・テルを通して、共産党のありようを再検討してみることは、日本共産党史に新たな視点をもたらすものと考えている。


PAGE TOP